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The Lost Samurai/The Japanese Civil War: The Boshin War in Shonai 1868 ③

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【Japanese Civil War: The Boshin War】 (1868~1869)
150 years ago, some of southern and western states in Japan: Satsuma, Chyosyu, Tosa, Higo, and Saga, uprised to change the government by using military forces in 1868, and established a new government which was leaded by the Emperor.  The former Toukugawa Government made the decision to surrender soon and had intended to avoid the civil war. But, the southern and western states,especially Satsuma and Chyosyu never stopped fighting to the Tokugawa alliance. Therefor the war continued till the Hakodate War in 1869.
 
幕末の史劇は清河八郎が幕を開け、坂本竜馬が閉じた、といわれる……作家の司馬遼太郎は、代表作の一つである「竜馬がゆく」の中で、清河八郎をこんな風に説明しています

実際の清河八郎はどんな人だったんでしょうねぇ?清河を知る人が描いたとされる肖像画は残されています。写真は……あるのかな?普通に考えれば幕末初期に「尊皇攘夷」などと言っていた連中が、「夷狄(いてき=野蛮人、外国人を蔑んだ呼び方)」そのものである写真を撮っていた……なんてのはあり得ないと思うんですけどねぇ。確かにネット検索をすると「清河八郎」と表示された写真のような肖像画は出てきますけど……そもそもそれって本モノかなぁ??後から描いた肖像画を古写真風に仕立てて、「本人です」なんて言ってるケースも多いからなぁ……ホント、この↑写真の清河八郎像は一体、何をベースに作られたんでしょうねぇ……
 
それはさておき、幕末の志士・清河八郎は、出羽国清川村……現在の山形県庄内町清川の出身です。何をやった人か、と言えば……

新撰組が誕生するきっかけを作った人です!
 
1863年(文久3年)、幕府は将軍・徳川家茂の上洛を警護するために、江戸で浪士たち約230人を集め京都に派遣します。黒船来航以降、日本国内では、鎖国の継続か開国かを巡り幕府だけでなく国内各層で意見の対立が発生しました。それに加え、一部開国をしたことに伴う貿易不均衡と国内経済の混乱、それに便乗したさまざまな抗争の発生……と、幕府の内政コントロールに、随所でほころびが出るようになってきました。急増する外国人に、無知と恐怖から来る国内世論は沸騰。狂躁状態から、外国人の徹底排斥を訴え、「攘夷」と称しては辻斬りや押し込み強盗など、非合法活動を図る悪党たちが急増し、江戸や京都の治安は急速に悪化していきました

これを解決するため……要するに江戸、京の治安維持をするため、本来の治安維持部隊要員であった「旗本」たちを使うのではなく、「浪人であっても能力が優れていればそれを採用し、事にあたるべし」という案が提案され、それが採用された、ってワケです

徳川300年の歴史の中、天下泰平に慣れきってしまい戦力にならない「旗本」=本来は将軍の「親衛隊」なわけですからね=をアテにするのではなく、家柄とか出自はどうでもいいから「やる気と能力がある浪人」に、「YOU、任せちゃいなよ!」ってな話で、これを提案したのが、当時、一介の浪人だった清河八郎だったのですな

清河八郎の「扇動」に約230人の浪士が集まり、「浪士隊」が結成されました。そして清河八郎の引率の元、一行は一路、京都へ。ところが、いざ京都に着くと、リーダーであったはずの清河八郎が、「本当の目的は、将軍の警護ではなく、天皇配下の武士となって、江戸に戻って外国人を排斥する攘夷をするのだ」などとワケのわからんことをブチ上げたのですな。しかも、「天皇からちゃんと許しも得ているから大丈夫!」と

へ?なにそれ?将軍じゃなくて、天皇(ミカド)のため???

他のほとんどの浪士たちにしてみれば、そんなことは、当然、初耳です。「はぁ??なんじゃ?そりゃあ??わけわからん!」となって、浪士隊は、江戸に戻るグループと、「いやいや、そうは言って京都でしょ」と京都に残留するグループの、二つに分裂してしまいます

で、この時、京都に残った連中の「有名どころ」が、芹沢鴨、近藤勇、土方歳三ら(←実際のところは、この当時の近藤や土方は全くの無名、「田舎道場から来た芋侍」でしたがね……)で、このメンバーが後に幕府・会津藩公認の京都の治安維持を担当する武装警察組織「新撰組」を結成することになります
元々はどこの馬の骨ともつかない浪士・侍もどきの烏合の衆だった新撰組は、会津藩の手先として、京都に大量流入していた「不逞浪士」たちをバッタバッタと斬り殺して行きます。そして、新撰組が、それらの不逞浪士・攘夷志士を切れば切るほど、その志士たちを排出していた西国諸藩による幕府への憎悪は高まり、倒幕運動は加速していった、ってなワケです(←相当ざっくりとした話ですが)

まあ、そんなわけで、ここいらが、「清河八郎が幕末史劇の幕を開けた」と言われる理由でしょう

一方、分裂し江戸に戻った浪士隊は、ほどなく清河八郎が暗殺されてしまったために組織としての行き場を失い、その処遇が宙に浮いてしまいます。最終的には「新徴組」という武士集団に再編され、庄内藩預かりとなり、京都の新撰組同様に、武装警察組織となり、江戸の治安維持に邁進します。江戸市中をぐるぐる見廻りしては、不逞浪士を摘発し、予防的措置として排除する……。次の日も、ぐるぐる見廻りしては、不逞浪士を摘発し、予防的措置として排除する……。そのまた次の日も、ぐるぐる見廻りしては、不逞浪士を摘発し、予防的措置として排除する……。今日でも警察官を指す「お巡りさん」の語源は、実はこの、庄内藩・新徴組による市中見廻りからきているのだそうですね
さて、清河八郎は幕末期において、明らかにキーパーソンなのですが、後世の歴史家や歴史小説家からの描かれ方は散々です

司馬遼太郎の「竜馬がゆく」でも、「百年に一人という偉材だろう」と持ち上げれつつも、「独り策謀をめぐらし、その策謀で世間を踊らせ、功ををひとり占めにし、常にその策謀の中心に座りたがった。徳がない、ということになろう」なんて、ボロっかすに描かれています。「酔っ払って人を斬ってお尋ね者になった」とか「策士」だとか「変節漢」だとか、まあ、散々です。ドラマやマンガに登場する清河八郎は、おしなべて傲慢で多弁で狡猾そうに描かれています

清河八郎が、現代までの後世で、どのように描かれてきたのか? それを全部を知っているわけではありませんが、アタクシが知ってる範囲では、いずれもまあ、酷いモノです。しかしながら、最近の研究では、これらの「傲慢な策士」という清河八郎像は、いずれも後世になってから「意図的に作られたものだ」となってきています
「酔っ払ってる時にぶつかってきた人を斬った」というエピソードがありますが、近年では、これは、酔っ払っている清河八郎に、岡っ引きの手下かなんかがわざとぶつかり、トラブルを起こさせ、捕縛しようとしていた……とされています。ところが清河八郎は、酔っ払っているにもかかわらず、この手下の意図を見抜き、そいつを一刀両断してしまった=それだけ腕が立った、ので、逮捕できなかった……とされています。「酔っ払って人を斬った」だけなら単なる粗暴な男ですが、「包囲網を逃れるために、相手の度肝を抜く対応をしてのけた」のだとしたら、豪胆な人物、ということになりますよね

また、「策士・策略家」という評価についても、確認されている事実を重ねていけば、自ずと別の見方も出来てくる、というわけです

確かに、一介の浪人に過ぎなかった清河八郎ではありますが、結果的には、幕府も天皇も実際に動かしたわけですよ。と、いうことは、それなり以上の「文章力」や、作戦を立てる「構成力」を持ち、幕府高官や朝廷に対応するための礼儀作法から、幕府や朝廷の意思決定の仕組みまでをちゃんと理解しており、それを動かすだけの行動力もあった=今風にいうなら、相当にプレゼン力が高い人物であった=と見ることも可能です。そう考えると、ナンとも不思議ですね~
 
しかし、その「プレゼン高男」くんが、その後の歴史においては、150年近くも「狡猾スネ夫」とされてきた……この背景には、現在喧伝されている「戊辰戦争史・明治維新史」は、あくまでも「勝者によって描かれた、勝者のためのストーリー」であり、清河八郎は、そのストーリーによりドラマ性を加えるために、あるいは、そのストーリーに沿った誰かをよりヒーローとして引き立てるために、幾度となく、「便利な敵役」として使い回されてきたのではなかろうか?……そんな風にも考えるわけです

いずれ、今も昔も「事実は東スポよりも奇なり」ですわ

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