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The Lost Samurai/The Japanese Civil War: The Boshin War in Shonai 1868 ②
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This blog has written in Japanese almost all topics. I think this blog is also fun for non-Japanese speaker. So please translate this articles by using "Translate" that puts on the right side of this blog page and enjoy. Thank you for your coming.
【Japanese Civil War: The Boshin War】 (1868~1869)
150 years ago, some of southern and western states in Japan: Satsuma, Chyosyu, Tosa, Higo, and Saga, uprised to change the government by using military forces in 1868, and established a new government which was leaded by the Emperor. The former Toukugawa Government made the decision to surrender soon and had intended to avoid the civil war. But, the southern and western states,especially Satsuma and Chyosyu never stopped fighting to the Tokugawa alliance. Therefor the war continued till the Hakodate War in 1869.
鶴岡市新海町にある「安国寺」というお寺さんに、このほど、幕末に庄内藩で中老だった石原倉右衛門(1827~1868)の功績を紹介する看板が設置されました。この安国寺には、実は、石原倉右衛門の墓があったんですね。だけど、ほとんど知られてなかった。そこで、庄内地域に住む有志がお金を出し合い、看板と、墓の場所を示す表示板を設置したのですな。
石原倉右衛門は、1868年(慶応3年)、幕府の命令を受け、江戸・三田にあった薩摩藩邸を焼き打ちします。
このころ、江戸には、倒幕をめざす薩摩・長州両藩、特に薩摩の西郷隆盛からの指令を受けた浪人たちが大量流入。各地で殺人や強盗、放火といったテロ活動を起こしては、幕府と世情の混乱を狙っていました。幕府から江戸市中取締を命じられていた庄内藩は、新徴組などの「武装警察組織」を配下に従え、対テロ掃討戦と治安維持に奔走していたのですな。
江戸市内でテロ活動を繰り返していた浪士たちは、自分たちが不利になると、とたんに「治外法権」であった薩摩藩邸に逃げ込む。そして密かに市中に舞い戻っては、またテロ活動をして、幕吏に追われると、また「治外法権」の薩摩藩邸に逃げこむ……こんなことを繰り返してました
これが幕府の権威が強かった時代ならば、たとえ薩摩のような有力大名であっても、幕府に逆らうことはできなかったのですが、幕末もこの時期ともなると、幕府の権威は大いに失墜していた。こうなると薩摩藩も幕府の意向なんぞ端から無視し、知らぬ存ぜぬとのらりくらり時間稼ぎをする始末。しかし幕府とてバカではありません。「騒ぎの黒幕は薩摩藩」と、ついには強攻策に出ることを決意します。
もちろん、幕府内部にも、当時の政治事情から、対薩摩で慎重対応を求める声もあったものの、この時ばかりは強硬派が主導権を握り、薩摩藩邸であっても容赦なく焼き打ちにせよ、となります。そうこうして迎えたのが慶応3年12月25日(1868年1月19日)未明の「討ち入り」であります。そして、石原倉右衛門は、庄内藩の軍監として現場指揮を執りました。藩邸内の浪士200余人に対し、包囲する幕府側は庄内藩を筆頭に上山藩、鯖江藩、岩槻藩など約1000人……
まあ、後日談的には、この「薩摩藩邸焼き打ち」事件があったことから、庄内藩が結果的に征伐対象(いわゆる賊軍)とされた……などとも言われますが、最近の研究では、それは、まさに、「単なる口実」で、庄内藩が賊軍とされたのは、全く別の理由から……とされています。この件については、機会があれば、また別途……
話を石原倉右衛門に戻しましょう。
1868年1月26日に鳥羽伏見の戦いが起こり戊辰戦争が勃発すると、石原倉右衛門は、庄内藩の日本海側北部の藩境・吹浦口方面(現・遊佐町吹浦)の主将(部隊長・指揮官)として出陣、秋田藩を撃退します。さらには、藩を代表し奥羽越列藩同盟による協議に参加。西洋最新式の武器・弾薬買い付け係を担当します。石原は、西洋の武器商人と武器購入の契約を結び、庄内に戻ろうとする途中、松ケ崎(現・新潟市)で新政府軍と遭遇、殺されます。享年42と伝えられています
安国寺境内にある石原倉右衛門の墓には、実は、本人の名前は一切書かれていません。あるのは戒名と没年月日ぐらいです。知らない人が見ても、誰の墓かはわからないようになっています
これには事情があるんです
戊辰戦争で敗れた庄内藩は戦後処理で、戦争の全責任をこの、当時既に死んでいた石原倉右衛門に押しつけたのですな。明治新政府は戊辰戦争の敗戦処理として各藩に、「反逆首謀者」の届け出を命じました。要するに、「お前のところは、だれがこの戦争の最終意思決定をしたのか?」ということです
当時の制度上から言えば、それは当然「藩主」になるはずなんですが、藩主・お家を守るのが武士の仕事でもありますので、「はい、ウチの殿様が全てをやりました」と、藩主を首謀者として届け出るワケにもいきません。これはある意味、太平洋戦争の敗戦時と同じですね。戦争の最終決断をしたのは天皇ですが、敗戦時に、天皇の戦争責任は一切取られていません……「太平洋戦争と同じ図式」というよりは、「太平洋戦争敗戦時に、この戊辰戦争時の戦後処理の形が流用された」とでも言った方がいいかもしれません
当時の庄内藩には、石原よりも上席の家老はいくらもで居たようなのですが、「死人に口なし」そのもので、石原を「反逆首謀者」としました。記録によると、新政府の側にも、それで良い旨を打診してきた様子も残されているようなで、まさに「談合」による「詰め腹」だった、という事になりますね
こうして庄内藩は、戦犯追及によって旧藩体制の解体を図ろうとした新政府の命令にも、表面従腹背で臨み、実質的な藩指導部はしっかりと温存する、という巧妙な策に出たわけです。現代からみると、なんとも「武士らしい潔さがなく卑怯な行為」にしか見えませんが、当時としては「お家を守るため」の最善策だったのでしょう。確かにこの後、庄内藩は敗戦国にもかかわらず、大きな混乱を起こすこともなく、明治という新時代へスライドしていきました(ちなみにこの時の指導部温存が、後の「ワッパ騒動」<←庄内地方全域を巻き込んで1873年~1880年に起きた大規模な百姓一揆で、後に自由民権運動へとも発展した民衆蜂起>を引き起こす原因の一つになったのですから、歴史の関係性とか連続性とかは、実に不思議なものですね)。
さて、倉右衛門が「反逆首謀者」とされた結果、石原家は家名断絶となりました。墓を建てても、名前も刻めません。その一方で、遺族らには、藩主と同じ「酒井」の姓が与えられ、知行や屋敷も保証されたというから、責任は全て倉右衛門に被せて自らの保身を図った、当時の藩を牛耳っていた連中の中にも、「良心の呵責」みたいなものは多少はあったのではないでしょうかねぇ……。
しかしながら、そういうわけで、こと庄内藩においては、その後、石原倉右衛門の名前が歴史の表舞台に登場することは決してありませんでした。戒名だけの墓石が今日まで放置されてきたことが、何よりもその不遇さを雄弁に物語っていることでしょう。
ところが、何にでも表と裏があるように、倉右衛門が遭難した新潟では、村人が墓を作ったり、1930年には「殉難遺蹟の碑」が建立されてりと、明治以降も、節目節目で供養が行われてきたようなのです。そして現在でも、石碑は、新潟市内にある貴重な戊辰戦争史跡として、今日でも語り継がれているんだそうです
今回、石原の案内板が設置されるきっかけになったのは、鶴岡市内の歴史研究家が「戊辰戦争150年」だった昨年、庄内藩の戊辰戦争の足跡をまとめる本を作り、その過程で各戦地を巡ったのがきっかけだとか。
ヨソではちゃんと評価・確認されているのに、庄内では名前すら誰にも知られていない……そんな「忘れられた庄内藩士がいる」というケースは多々あり、その一環として、石原倉右衛門の「名誉回復」が企画された、というワケです。
ただでさえ後世に伝わる歴史の多くは、「戦勝者による正史」であり、敗者の側が正確に記録されているケースは希です。しかも、「似非正史」の代表選手・NHKの大河ドラマにも出てこないとなると……
「あったことそのものさえ抹殺され、忘れ去られてしまう」
これは人類史の「あるある」で、実に怖いところでもあります。ましてや最近は、どこでもかしこでも、今の自分らにとって「都合の悪いこと」ならば、例え「あった」としても、枝葉末節に難癖をつけ「そもそも、なかったことにしてしまう」……という、歴史修正主義者が跋扈しております。
そんな時代であればこそ、石原倉右衛門を埋もれたままにしておくということは、誰かにとって都合良く修正され、整えられた歴史のみを認めることになってしまい、「歴史から学ばない人類」をさらに拡大再生産してしまう……ということでもありましょうね
【Japanese Civil War: The Boshin War】 (1868~1869)
150 years ago, some of southern and western states in Japan: Satsuma, Chyosyu, Tosa, Higo, and Saga, uprised to change the government by using military forces in 1868, and established a new government which was leaded by the Emperor. The former Toukugawa Government made the decision to surrender soon and had intended to avoid the civil war. But, the southern and western states,especially Satsuma and Chyosyu never stopped fighting to the Tokugawa alliance. Therefor the war continued till the Hakodate War in 1869.
鶴岡市新海町にある「安国寺」というお寺さんに、このほど、幕末に庄内藩で中老だった石原倉右衛門(1827~1868)の功績を紹介する看板が設置されました。この安国寺には、実は、石原倉右衛門の墓があったんですね。だけど、ほとんど知られてなかった。そこで、庄内地域に住む有志がお金を出し合い、看板と、墓の場所を示す表示板を設置したのですな。
石原倉右衛門は、1868年(慶応3年)、幕府の命令を受け、江戸・三田にあった薩摩藩邸を焼き打ちします。
このころ、江戸には、倒幕をめざす薩摩・長州両藩、特に薩摩の西郷隆盛からの指令を受けた浪人たちが大量流入。各地で殺人や強盗、放火といったテロ活動を起こしては、幕府と世情の混乱を狙っていました。幕府から江戸市中取締を命じられていた庄内藩は、新徴組などの「武装警察組織」を配下に従え、対テロ掃討戦と治安維持に奔走していたのですな。
江戸市内でテロ活動を繰り返していた浪士たちは、自分たちが不利になると、とたんに「治外法権」であった薩摩藩邸に逃げ込む。そして密かに市中に舞い戻っては、またテロ活動をして、幕吏に追われると、また「治外法権」の薩摩藩邸に逃げこむ……こんなことを繰り返してました
これが幕府の権威が強かった時代ならば、たとえ薩摩のような有力大名であっても、幕府に逆らうことはできなかったのですが、幕末もこの時期ともなると、幕府の権威は大いに失墜していた。こうなると薩摩藩も幕府の意向なんぞ端から無視し、知らぬ存ぜぬとのらりくらり時間稼ぎをする始末。しかし幕府とてバカではありません。「騒ぎの黒幕は薩摩藩」と、ついには強攻策に出ることを決意します。
もちろん、幕府内部にも、当時の政治事情から、対薩摩で慎重対応を求める声もあったものの、この時ばかりは強硬派が主導権を握り、薩摩藩邸であっても容赦なく焼き打ちにせよ、となります。そうこうして迎えたのが慶応3年12月25日(1868年1月19日)未明の「討ち入り」であります。そして、石原倉右衛門は、庄内藩の軍監として現場指揮を執りました。藩邸内の浪士200余人に対し、包囲する幕府側は庄内藩を筆頭に上山藩、鯖江藩、岩槻藩など約1000人……
まあ、後日談的には、この「薩摩藩邸焼き打ち」事件があったことから、庄内藩が結果的に征伐対象(いわゆる賊軍)とされた……などとも言われますが、最近の研究では、それは、まさに、「単なる口実」で、庄内藩が賊軍とされたのは、全く別の理由から……とされています。この件については、機会があれば、また別途……
話を石原倉右衛門に戻しましょう。
1868年1月26日に鳥羽伏見の戦いが起こり戊辰戦争が勃発すると、石原倉右衛門は、庄内藩の日本海側北部の藩境・吹浦口方面(現・遊佐町吹浦)の主将(部隊長・指揮官)として出陣、秋田藩を撃退します。さらには、藩を代表し奥羽越列藩同盟による協議に参加。西洋最新式の武器・弾薬買い付け係を担当します。石原は、西洋の武器商人と武器購入の契約を結び、庄内に戻ろうとする途中、松ケ崎(現・新潟市)で新政府軍と遭遇、殺されます。享年42と伝えられています
安国寺境内にある石原倉右衛門の墓には、実は、本人の名前は一切書かれていません。あるのは戒名と没年月日ぐらいです。知らない人が見ても、誰の墓かはわからないようになっています
これには事情があるんです
戊辰戦争で敗れた庄内藩は戦後処理で、戦争の全責任をこの、当時既に死んでいた石原倉右衛門に押しつけたのですな。明治新政府は戊辰戦争の敗戦処理として各藩に、「反逆首謀者」の届け出を命じました。要するに、「お前のところは、だれがこの戦争の最終意思決定をしたのか?」ということです
当時の制度上から言えば、それは当然「藩主」になるはずなんですが、藩主・お家を守るのが武士の仕事でもありますので、「はい、ウチの殿様が全てをやりました」と、藩主を首謀者として届け出るワケにもいきません。これはある意味、太平洋戦争の敗戦時と同じですね。戦争の最終決断をしたのは天皇ですが、敗戦時に、天皇の戦争責任は一切取られていません……「太平洋戦争と同じ図式」というよりは、「太平洋戦争敗戦時に、この戊辰戦争時の戦後処理の形が流用された」とでも言った方がいいかもしれません
当時の庄内藩には、石原よりも上席の家老はいくらもで居たようなのですが、「死人に口なし」そのもので、石原を「反逆首謀者」としました。記録によると、新政府の側にも、それで良い旨を打診してきた様子も残されているようなで、まさに「談合」による「詰め腹」だった、という事になりますね
こうして庄内藩は、戦犯追及によって旧藩体制の解体を図ろうとした新政府の命令にも、表面従腹背で臨み、実質的な藩指導部はしっかりと温存する、という巧妙な策に出たわけです。現代からみると、なんとも「武士らしい潔さがなく卑怯な行為」にしか見えませんが、当時としては「お家を守るため」の最善策だったのでしょう。確かにこの後、庄内藩は敗戦国にもかかわらず、大きな混乱を起こすこともなく、明治という新時代へスライドしていきました(ちなみにこの時の指導部温存が、後の「ワッパ騒動」<←庄内地方全域を巻き込んで1873年~1880年に起きた大規模な百姓一揆で、後に自由民権運動へとも発展した民衆蜂起>を引き起こす原因の一つになったのですから、歴史の関係性とか連続性とかは、実に不思議なものですね)。
さて、倉右衛門が「反逆首謀者」とされた結果、石原家は家名断絶となりました。墓を建てても、名前も刻めません。その一方で、遺族らには、藩主と同じ「酒井」の姓が与えられ、知行や屋敷も保証されたというから、責任は全て倉右衛門に被せて自らの保身を図った、当時の藩を牛耳っていた連中の中にも、「良心の呵責」みたいなものは多少はあったのではないでしょうかねぇ……。
しかしながら、そういうわけで、こと庄内藩においては、その後、石原倉右衛門の名前が歴史の表舞台に登場することは決してありませんでした。戒名だけの墓石が今日まで放置されてきたことが、何よりもその不遇さを雄弁に物語っていることでしょう。
ところが、何にでも表と裏があるように、倉右衛門が遭難した新潟では、村人が墓を作ったり、1930年には「殉難遺蹟の碑」が建立されてりと、明治以降も、節目節目で供養が行われてきたようなのです。そして現在でも、石碑は、新潟市内にある貴重な戊辰戦争史跡として、今日でも語り継がれているんだそうです
今回、石原の案内板が設置されるきっかけになったのは、鶴岡市内の歴史研究家が「戊辰戦争150年」だった昨年、庄内藩の戊辰戦争の足跡をまとめる本を作り、その過程で各戦地を巡ったのがきっかけだとか。
ヨソではちゃんと評価・確認されているのに、庄内では名前すら誰にも知られていない……そんな「忘れられた庄内藩士がいる」というケースは多々あり、その一環として、石原倉右衛門の「名誉回復」が企画された、というワケです。
ただでさえ後世に伝わる歴史の多くは、「戦勝者による正史」であり、敗者の側が正確に記録されているケースは希です。しかも、「似非正史」の代表選手・NHKの大河ドラマにも出てこないとなると……
「あったことそのものさえ抹殺され、忘れ去られてしまう」
これは人類史の「あるある」で、実に怖いところでもあります。ましてや最近は、どこでもかしこでも、今の自分らにとって「都合の悪いこと」ならば、例え「あった」としても、枝葉末節に難癖をつけ「そもそも、なかったことにしてしまう」……という、歴史修正主義者が跋扈しております。
そんな時代であればこそ、石原倉右衛門を埋もれたままにしておくということは、誰かにとって都合良く修正され、整えられた歴史のみを認めることになってしまい、「歴史から学ばない人類」をさらに拡大再生産してしまう……ということでもありましょうね
#戊辰戦争
#明治維新
#明治維新のウソ
#歴史修正主義者
#大河ドラマはフィクションだから
#勝てば官軍
#すべてはなかったことに
#王様の耳はロバの耳
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