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The Lost Samurai/The Japanese Civil War: The Boshin War in Shonai 1868 ①

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【Japanese Civil War: The Boshin War】 (1868~1869)
150 years ago, some of southern and western states in Japan: Satsuma, Chyosyu, Tosa, Higo, and Saga, uprised to change the government by using military forces in 1868, and established a new government which was leaded by the Emperor.  The former Toukugawa Government made the decision to surrender soon and had intended to avoid the civil war. But, the southern and western states,especially Satsuma and Chyosyu never stopped fighting to the Tokugawa alliance. Therefor the war continued till the Hakodate War in 1869.
今から150年前にあった戊辰戦争(1868~1869)は、今日的視点から見ると、何とも酷い戦争(内戦)だったと言えるのではないでしょうか?闘いの内容がもさることながら、こんなやらなくて良かった戦争はなかったのでは?と思いますね
 
江戸幕府はこの時期、国内の統治能力も外交能力も十分に有していたにもかかわらず、組織そのものが肥大化し疲弊していた、とでも申しましょうか、まあ、結果的には、政治的に的確に機能しなかった。そこを、薩摩・長州を筆頭とする討幕派が、世情に疎い公家を騙し、あるときは威し、江戸や京都、大阪といった都市部においては、暗殺や襲撃といったテロ行為を繰り返し、社会を混乱させ、遂には幕府を戦争状態に引きずり込んでいった。ところが、徳川慶喜は政権交代の混乱期を欧米列国につけ込まれないためにも、「大政奉還」という奇策を打ち、政権を天皇に返上してしまい、倒幕派は振り上げた拳の降ろしどころを失ってしまった。
本来はそれで、平和裏に政権交代が行われるはずだったがしかし、倒幕派の首班である西郷隆盛は「あくまでも武力による政権交代こそがどうしても必要」と、恭順を示している会津など東国の徳川親藩に難癖をつけ、ついには戦争を仕掛けた……。西郷の戦いを好む性質が、「本来はまったく必要のなかった」内戦を生み出した。それが戊辰戦争の真の姿というわけですよ。実際こういった視点は、今日的日本史では常識になりつつありますね

【What was happened the Boshin War in Shonai?】
戊辰戦争は1868年1月の「鳥羽伏見の戦い」から始まり、戦場は東へ東へと進みます。4月には江戸城開城があり、新政府軍が江戸に進駐。それ以降は、北関東~東北の各藩へ戦争を仕掛けていきます。有名なのは、若い侍集団・白虎隊の集団自決をまねいた「会津攻め」や、長岡藩の家老・河井継之助の奮戦で知られる「北越戦争」でしょうね
いずれもNHKの大河ドラマを筆頭に、幕末モノのドラマに何度も取り上げられ、幕末~明治における戊辰戦争正史の様相を呈していますが……東日本における「戊辰戦争」は、この「会津攻め」と「北越戦争」だけではなかったのですな
東北地方における戊辰戦争で、新政府軍との間で、最初の砲火が交えられたのは、実は、会津(現・福島県)ではなく、山形県です。現在の庄内町清川で、清川口に布陣していた庄内軍を、最上川沿いに西進してきた薩摩・長州兵194を主力とした新政府軍約500が奇襲します。これが最初の闘いです。1868年(慶応4年・明治元年)4月24日午前6時ごろから両軍は激しい戦闘状態に突入します。上の写真は、新政府軍が最初に布陣した「腹巻岩」です。この高地から宿場町に向けて砲撃をしたそうです

守る庄内軍は兵力400、砲24門。不意を突かれた形になり、当初はおされまくり、戦線を立て直すための一時撤退も検討されますが、現場指揮官だった家老の松平甚三郎はここで「死守」を命令します。それは当然の判断で、庄内軍にしてみれば「ここ(清川口)を抜かれては、後は遮るものもなく、敵軍は庄内平野をまっしぐら」。もう、死にものぐるいで闘います。午後になってくると、急を知って庄内藩各地から、藩士や農兵など、数百の援軍が次々と戦線に加わりました。農兵などは、別段、鉄砲などの武器があったわけではないですが、地の利を生かし敵部隊の裏に回り込み、大声を出すなどして攪乱戦法を行い、遂には形勢をひっくり返し、新政府軍の撃退に成功します。
記録によると、薩長の死者は12人。庄内軍は20人だったそうです。古戦場となった清川口の、月山を源とする立谷沢川が最上川に合流する付近に、この時死んだ長州兵を弔った「官軍墓地」があります。この墓が見据えている正面の山が「腹巻岩」になります。
清川口には、現地の出身者にして、幕末の志士・清河八郎の記念館があります。清河八郎記念館の中には、この「戊辰戦争・清川口の闘い」に関する記録(戦闘解説図)や、木に打ち込まれた弾丸などの資料も展示されていますよ。下の写真が記念館です。後の林がかつて「御殿林」と呼ばれた林の名残で、この中の古い木には、戊辰戦争当時に打ち込まれた弾丸や砲弾の破片が、今でも入っているのがあるのだとか
施設は古ぼけていて、せっかく集めた資料も、まさに展示されているだけで、大した解説もされてはいませんが、日本が近代化のために作り出した「戊辰戦争・明治維新」という大きなストーリーの中で、賊軍とされ、長い間、意図的に見過ごされてきた、ホンモノの歴史の一部が、若干かび臭いながらも残されているというのは貴重でしょうね

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